今年も半分が過ぎようとした頃、マイケル・ジャクソンの訃報が飛び込み、連日彼のニュースだらけとなりました。私はマイケルのファンというほどではありませんが、ジャクソン・ファイブの頃のかわいい少年の姿がまず思い出されます。当時の米国は「有色人種にも白人と平等な権利を」と訴える公民権運動が盛んでした。おりしも米国の代表産業である自動車の町デトロイトにモータウン・レコードができ、ダイアナ・ロスをはじめテンプテーションズといった黒人のポップ・シンガーたちが彗星のように登場した時代でもあります。時代の流れが今まで差別によって閉じ込めていた才能を一気に開花させた感じがしました。

大人になったマイケルはカッコ良いものの、どこか精神的に病んでいるようにも見えました。大スターになればなるほど周囲の期待はふくらみます。うっかり買い物にも行けないでしょうし、自分の私利私欲のために近づいて来る人たちも多いでしょう。ライバルたちによるねたみ、うらみもあるでしょう。本人は有名税と思い覚悟していても、時にはそれらが家族までに及びます。事実、マイケルがなくなるまで米国での評判はさんざんでした。「マイケルをこきおろす」事で利益を得ていた人も少なくないに違いありません。

もうひとつは若くして才能を発揮する人たちの不幸です。ゴルフのタイガー・ウッズの時も思いましたが、若くして頂点をきわめた人の人生は大変です。頂点から先の人生があまりにも長すぎるからです。また、無邪気な子ども時代を知らずに、狡猾な大人たちにもてあそばれながら過ごす悲しさ。才能と運を持った人だけにわかる「幸福という名の不幸」かも知れません。

昔から「平凡が一番」と言いますが、凡人として細く長く生きる幸せを感謝し、凡人なりに努力をし、世に貢献しなければ、と思う今日この頃です。

ほんやら堂も大ヒット商品1発で終わりよりも、中ヒット、小ヒットをおりまぜながら長く愛される企業であってほしいと思います。